回顧録 航空自衛隊にいたことがあります

回顧録 航空自衛隊にいたことがあります18歳から3年間です。

入隊準備で奈良基地で制服などを支給され、教育訓練のため山口県防府の南基地に入隊、ここで新隊員過程を受けました。

ここにいるときに体験搭乗で練習機に乗せていただきした。

その後浜松の南基地の第一術科科学校でレーダの教育を受ける。休みの日には、浜松の市街地に出かけましたがあまり記憶に残っていません。両親が近くに舘山寺という所があり観光に来てくれたのを覚えています。

ここでは、航空機整備の課程と同じ配属でしたが、そのおかげで戦闘機に乗ることもできました。もう二度と無い経験ですね。

その後、新潟県佐渡島にある第46警戒群佐渡駐屯基地の電子小隊に配属される。ここで2年半の充実した青春時代を過ごすことになります。

ここには、反戦自衛官で有名になったらしい少年自衛官出身の小西3曹がいた部隊と聞いています。

配属され面倒を見てくれたのが同じ少年自衛官出身の方で可愛がって貰いました。航空自衛隊の技術部部隊であっても結構荒くれどもの集まりなので、心強かったです。

佐渡は観光地でも有名で、佐渡金山やたらい船など夏場は賑やかでした。

冬には観光客もなく、雪も積もり静かな季節でした

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冬は基地勤務は辛い物があります。通常は24時間勤務の交替で3~4日勤務で2日休みといった交替勤務でしたが、冬場は越冬勤務と行って1週間から10日間隔の勤務になります。

冬の金北山の地下基地に滞在します。交替での食事やお風呂の当番もあり、また非番でも基地から出られず娯楽場でお酒を飲んだりビリヤードをしてました。

交代時には雪上車でベースキャンプを往復するのですが、たまに訓練で徒歩での下山や登山もありました。背嚢を背負って冬の金北山を登ったり下山したり辛かったですが良い思い出になっています。

当時のレーダは方位レーダと高度測位レーダの2機のレーダで航空機などを補足していましたが、自衛隊にいた3年の間に3次元レーダなる物が導入され1台のレーダで方位と高さが解ると行った画期的なレーダでした。

通常の方位レーダが縦に2台または3台重ねて構築されており、上のアンテナと下のアンテナとの受信時間差で角度を求め目標の高度を求めるも仕組みでした。

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このころからコンピュータの原型を学ぶことになります。敵味方識別や反射電波から目標物の速度や大きさ資質を調べるなんて物も学びましたね。当時のコンピュータは、大きな物で20畳ぐらいの部屋一杯の機器で埋もれていました。

レーダ基地の地下に作られた迷路のような部屋での生活はまるでSFの世界でしたね。

一応、自衛官なのでライフル射撃や高射砲の射撃練習などもしました。台風が来たときには災害派遣で土嚢運びも経験しました。陸上自衛隊が主役なのでお手伝いがメインでしたが。

休みには、外出許可をもらい横町アパートと言うところの下宿で過ごしていました。当時はオーディオに凝ったりバイクで走り回ったりしてましたね。

当時仲の良かった、バスガイドさんの実家の民宿に遊びに行ったのが楽しい思い出として残っています。お父さんが漁師で民宿をやっていました。子供が姉妹二人で養子を望んでましたね。狙われたのかも知れませんが、そこまでは考えませんでした。

場所は外海府と呼ばれる佐渡島の北西部でした。民宿の名前を検索しましたが、今はないようです。

下宿していた町には総合病院や女子校があって楽しい時期を過ごせました。病院はまだあるようですが、女子校は平成16年になくなったようです。

当時は、女子高生が近くに下宿していたり、病院の看護寮があったりで独身の自衛官には最高の場所でした。

冬には地元の若者がダンスパーティなど出会いの場を企画したりで、自衛隊の独身連中もさんかしてました。中には結婚して地元にとどまった人もいますね。

漁師になったり民宿をしたり、自衛隊も地元の活性化には役に立っていたのかも知れません。

私は、1974年11月に除隊して大阪に戻ることになります。

大阪に帰るときには、一番仲の良かった新潟県柏崎終身の年上の後輩、に車で送ってもらいました。丸1日掛けての大阪行きですが、尽きぬ話しに金沢を巡り高速がなかった時代、国道8号線をはしりかえってきました。

彼も除隊後は地元に帰り原発関係に就いたそうです。

 

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