敏馬神社(みぬめじんじゃ)

敏馬神社(みぬめじんじゃ)敏馬神社(みぬめじんじゃ)

wikipediaより
『摂津国風土記』逸文に当社創建に関する記述がある。神功皇后が新羅征伐に出発する際、川辺郡神前松原(現在尼崎市の神崎もしくは豊中)で戦勝祈願したとき、猪名川上流の能勢の美奴売山(大阪府豊能郡三草山)の神が来て、美奴売山の杉の木を切って船を作れば必ず勝利すると告げた。その通りにして勝利を納めた帰途、古代には南に突き出した岬となっていた当地の沖で船が動かなくなり、船上で占いをするとこれは美奴売山の神の意志であるとわかったので、そこに美奴売神を祀ったという。これはある程度史実を伝えている模様で、住吉大社神代記にも猪名川の女神と武庫川の女神が住吉大神の気を引くために、互いに競ったことが記されている。摂津国風土記逸文に、豊受大神が丹波国に遷座する前は、摂津国稲倉山(所在不明)に居たことが記されているが、この稲倉山は猪名川上流域(豊能郡?)にあったのではないかとの説がある。

延喜式の玄蕃寮の項には、特に、新羅より賓客が来朝したとき、生田神社で醸した酒を、当地にてふるまったことが見える。難波の鴻臚館でも酒をふるまっているので、当地で酒をふるまうことは一種の儀式だった。延喜式神名帳では「摂津国八部郡 ?売神社」と記載され、小社に列している。

都から現在の大阪を経て、西国に船で向かうときの最初の宿泊港であり、西国から都に戻る時、大和を意識させる生駒山などが見え出す地でもあることから、柿本人麻呂、大伴旅人、田辺福麻呂はじめ、多くの歌人によって、和歌が当地で詠まれた。江戸時代には、俳人の与謝蕪村も兵庫の北風家に立ち寄る途中、度々訪れている。西国街道(浜街道)に面していたので、様々な遊戯施設が設けられ、陸からも、海からも、参拝者が訪れ、賑やかであった。

明治6年(1873年)8月に村社に列格し、昭和5年9月に県社に昇格した。昭和20年6月5日、戦災により社殿を焼失し、昭和27年に再建された。

本殿のある丘の下に湧水があったが、阪神・淡路大震災で涸れてしまった。

敏馬の泊・浦のうつりかわり

大和時代(八世紀)この高台は海に突きだした岬で東側は港に適した入り江であった。当時敏馬の泊一帯の地名は「津の国津守郷」。港の管理者が居住していたことが分かる。 大和の人が九州韓国へ行く時大阪から船出し敏馬の泊で一泊、大和が遠望できる最後の港、逆に帰る時はなつかしい大和が見える最初の港。また朝鮮人が来朝すると生田社でかもした酒を敏馬でらまう(延喜式)とあり機内に入るためにけがれを祓う港でもあった。 以上の様に大和の人に特別の感情をもつ地であっので万葉集には大和以外の地では稀に見る多くの浦が詠まれた。境内には柿本人麿と田辺福麿の歌碑がある。
なら時代後半(八世紀後半)航海の進歩と共に港は西の大輪田の泊へ移るがその後は白砂青松の美しい海岸は都の歌人達の賞でる所となり「みぬめ」と「見る眼」を掛詞にした浦が多く詠まれた。
江戸時代、神社前は西国街道の浜街道として往来繁しくまた氏子地に酒造・廻船業が栄えその財力を頼り多くの文人が訪れ当地にも文学(特に俳諧)がおこった。当社に俳諧奉納絵馬二扁が現存する。
明治以降は海水浴場として賑わい多くの茶屋料亭芝居小屋が神社周辺にあったが昭和の初め海岸の埋め立て、20年の戦災で往時の姿をなくした。
鎮守の森だけが往時を偲ぶ唯一のよすがである。

住所:兵庫県神戸市灘区岩屋中町4-1-8

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