銃創

航空戦艦日向 徒然なるもの

八月になると戦争の話が多く出てくる。私の父は航空軍艦日向に乗っていた。

航空戦艦日向

航空軍艦 日向

終戦の年の七月に米軍の攻撃で呉外港で大破着底

父はその前に下船し特殊攻撃艇特攻要員に配属訓練中に原爆投下後の広島を移動して九州の特攻基地へその後終戦を迎える

戦艦での空爆大破下艦、特攻要員、被爆地通過など経験した人である。

父の左腕には銃創が有った。小さい頃に大きな丸いアザを不思議に思い聞いたときに話してくれた。

戦争の事をほとんど話さない父だった。

ただ孫ができた頃に父が話した事が妙に気になっている。この頃になるとTVなどで戦争時のことを語る人が多くあった。

父は言っていた、3歳、5歳でよくあんなに覚えてるものだ、そして本当にあの時そう思っていたんだろうかと

父にはTVで戦争体験を話す人を怪訝そうに見ていた。

父には話が盛られてる感じがした様だ、事実悲惨な状態だったが、父は意外と冷静に見ていた様だ。

田舎生まれ農家育ちだったので食べるものは無かったが、野草や木の実根菜など平時でも採取し食しており木に住む虫(鉄砲虫)さえ食べていたもので戦時だからではなかった状況だと。実は私も食べた事がある、焼いて食べられる

TVで話される人達は、戦争前は結構裕福な人達だったにかもしれない。

しかし父も流石に被爆後の広島の様子には口数は少なかった。

特攻の事は呆れた様に語っていた、木造の小型ボートの先に爆薬を積んで小さなエンジンで敵の艦船に突っ込むもので速度、エンジン音など無事に相手までたどり続ける代物ではないと言っていた。

震洋

震洋 特攻用小型艇

エンジンのトラブルも多く出撃は一回も無かったと聞いた。

終戦日には幹部の多くがめぼしい食料や金目の物を持って居なくなったそうである。父達は上官の指示で残ったものから使えそうなものを持ち実家へ帰ったとの事だった。

自宅に帰る時にも広島を通過したが話したがらない。

私が自衛隊に入る時に父は絶対に海上自衛隊はダメだ船には乗るなと反対した。船は沈むのが船内にいるとわからないと言う。特に軍艦は船室に窓はない、気がついた時には遅いと言っていた。きっと何度も危険な目にあったのだろう。

結果私は航空自衛隊でレーダー整備に従事する事になる。平和な時代の軍隊である

レーダ整備士と言っても災害派遣には駆り出された、台風の時に増水した川の土手に土嚢を積み作業に従事したり、本隊が到着までの調査などに駆り出された。技術屋なので災害派遣で見られる活動はなかった。

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